鎖国って言わなくなるらしい

2020年7月8日


小中で「鎖国」消える…聖徳太子は「厩戸王」に

歴足って、後世に都合良く書き換えられるんですね。(笑)

文部科学省が14日に公表した次期学習指導要領の改定案では、小中学校の社会科で「鎖国」の表記をやめ、「幕府の対外政策」に改める。文科省は中学歴史でも、「聖徳太子」が没後100年以上たって付いた呼称だとして、「厩戸王(うまやどのおう)」に変える。
文科省によると、江戸幕府は長崎でオランダや中国との交易を許し、薩摩(鹿児島県)、対馬(長崎県)、松前(北海道)でも外交と貿易が行われていた。完全に国を閉ざしていたわけではないため、当時の実態に即して表記する。

いやいやいやいや、そんなこと、最近歴史的発見があって分かったことじゃないのに、どうしてって感じですよね。

島国・日本の閉鎖性を象徴する政策、というイメージもついてまわる鎖国だが、最新の歴史教科書の動向では、むしろ消えつつある古い言葉になってしまった。理由は明快で、歴史学の研究が進んだからだ。明らかになった史料によって、実証された事実によって、歴史教科書は変わっていく。
情報源:あなたの常識、古くないですか? 消えゆく「鎖国」「士農工商」……

って、その歴史学の研究の成果を教えて欲しいものですが・・・・

鎖国(さこく)とは、江戸幕府外交に関する権利を独占し、日本人の出入国及び貿易を管理・統制・制限した対外政策、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態を指す。実際には孤立しているわけではなく、朝鮮王朝朝鮮国)及び琉球王国とは「通信」の関係にあり、中国(明朝清朝)及びオランダオランダ東インド会社)との間に通商関係があった。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。一般的には1639年寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。但し、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降のことであり、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である。

確かにwikiにはこう書いてありますから・・・・・

でもそれにしたって、制限していたことに変わりないでしょうし、そもそも私だって、海外との交流や貿易がなかったわけじゃないことくらい、昔から知ってましたよ。

それをなんで、いまさらと思います。


中には、

小中学校の社会科から「鎖国」という表記が消えるらしい。
とてもいいことだ。
江戸時代も長崎でオランダやシナと交易しており、薩摩などでも外交や貿易が行われていたから、「鎖国」なんてなかったのだ。
これは重要な知識だ。
なぜなら今でも「保護貿易」と言うと、「鎖国」と思い込んでる馬鹿者がいるからだ。
国家主権を守りながら、インターナショナルに貿易することと、主権を失うグローバリズムは違うということが、どうしても分からないのは、クソ真面目に学校の教科書を記憶してきたインテリ言論人しかいないからだ。
「鎖国」という表記が消える

なんて書いている人もいるんですけど。
あ、これよく見たら、小林よしのり氏だった。
それにしても、そうであれば、もっと早く書き換えようよと思うのですが・・・・・

なんだかなあ。

時事

Posted by ymo