家族について考える

2020年7月11日


週末に家族でカラオケに行きました。
行きたいと思っていったんですが、結局は少し苦痛というか我慢を伴いました。
そこで考えてしまいました。
(まあ普通はそこでそんなことは考えないというようなことをです。)

家族
かぞく
family
婚姻によって成立した夫婦を中核にしてその近親の血縁者が住居と家計をともにし,人格的結合と感情的融合のもとに生活している小集団。家族は原始的群居の状態から次第に血縁的秩序の分化を経て今日の小家族へと段階的変化をとげてきた。


家族と言うと、結局は自分が生まれてきた時から見たり聞いたりしたものしか、形態としては知らないわけで・・・・

それがどんどん変化していって、自分の知らないものになったりしていくと、家族の崩壊だとか言ってみたりするのですが・・・・

前述の定義にも書いてあるように、「段階的変化」を起こすものなのですね。

でも、自分が知らない家族の形については、どうしても感情的に理解できないものです。

私くらいの世代だと、どうしても、「婚姻によって成立した夫婦を中核にしてその近親の血縁者が住居と家計をともにし,人格的結合と感情的融合のもとに生活している小集団。」というのがありかなと思うのですが、私より上の世代になると、婚姻によって成立した夫婦を中核にしてという記載より、家長の存在を基本に考えるでしょうし・・・・・

なんだかなあ。

家族というものが、上記のように、時代の要請に応じて変化するものなのですから、変化することは致し方ないのでしょうけれど、現在のように、個人で生きていける幅が広がってきてしまうと、家族という単位自体に意味がなくなってきているのでしょうね。

家族は助け合うものとかいう言葉も昔はあったような気がしますが、考えてみればそれは幻想であって、助け合わなければ生きていけない、または効率が悪いから、家族と言うのが成立していたという考え方もできるのではなんて思ってしまいます。


さて、最初のカラオケの話なのですが、カラオケに行って思うのも何なんですが、うちの子供たちは勝手に歌って、歌ってないときは携帯を見て、うちの奥様も盛り上がってくると自分の歌ばっかり入れて、一番下の小学生の子供なんて、やることなくてつまらなそうで・・・・・と全くまとまりがないのです。

こうなってくると、家族という感じで行くと苦痛でしかありません。

あくまで私の旧来の家族という定義で考えるとなのですが。

話がいったりきたりしていますが、これが今の家族の現状だと思うのです。

子供を完全に守ってあげなくても子供は育ちますし、子供が好き勝手やっても特に問題にはならないというのが、現在の社会情勢のような気がします。

つまりそれでも家族という生活形成単位が残されているのは、もはや経済的な観点でしかないのかもしれません。

経済以外の観点はもはや社会には必要ないのかもしれません。

例えば、礼儀や常識、生活習慣等々。

こんなものは、変わりゆく社会では、昔の風習のようなもので、まったく現在の社会に適応するのに必要なくなっているのかもしれません。

そう考えると、節分といった昔ながらの行事?ごとも、社会に必要なくなってしまったということなのかもしれません。